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最後の氷上奮闘記

竹高 成嘉(4年)

こんにちは。昨季主将を努めさせていただいた、たけたかまさよしです。
4年間の体育会活動を終え、引退させていただきました。12月の上旬に行われた国民体育大会の予選に参加して以来、競技から離れて生活をしております。生活の軸であったアイスホッケーがなくなり虚無感を覚えるものの、不思議とリンクに足を運ぼうとは思えていません。またアイスホッケーをしたくなったらリンクに通おうと思いますが、とりあえずは競技から離れていたい、これが私の今の正直な感想です。

さて最後の氷上奮闘記ということで何を書くか迷いましたが、今回は私の4年間を振り返ってみようと思います。
私の文章は毎回長く、読みづらいことで定評がありますが、最後の氷上奮闘記なので付き合っていただけたら、幸いです。

私は4年ぶりのスポーツ推薦者として入部しました。最初は未経験者とともにする環境に戸惑いつつも、とてもやる気に満ち満ちていた1年目の春を思い出します。私は本当に泣き虫でこの4年間でどれほど泣いて来たかわかりません。初めて涙を流したのは神奈川大学と初めて練習試合をし、負けてしまった時です。試合をしていて自分の技術は負けていない、むしろ飛び抜けていると思えるくらいの差を感じていましたが、試合には負けてしまったことへの悔しさで泣いたのを覚えています。当時の先輩はもしかすると変なやつと思っていたかもしれません。たかが練習試合に負けただけで泣いているのですから。なんで練習試合で負けたくらいでと思われるかもしれませんが、それほど自分の中で悔しい思いをしたのを覚えています。
春の大会が始まり、初ゴールを東洋大学相手に決め、ノリに乗っていました。正直調子に乗っていましたし、適当にアイスホッケーをしていました。

そんな時に私の人生の中で最も大きな出来事とも言える、サマーカップの八戸工業大学戦を迎えました。
3ピリ残り5分程度その試合の得点の全てに絡み、自分の中で調子乗っていたのかもしれません。試合中にもかかわらず、近くで試合を見ていた高校の同期とヘラヘラしていました。試合に集中していない中で、怪我をしてしまいました。八戸工業大学とはその試合前にも練習試合をしていて、その時から怪我の原因となるチェックを受けた選手とは乱闘まではいかないものの、やりあっていました。相手も僕のことを潰したかったのでしょう。
その試合でも初めからその選手とはやり合っていたので、因果応報のようにも感じます。
今の現役の選手に言っても信じてもらえないかもしれませんが、怪我をする前の僕はとてもプレーが荒かったので、いろんな選手にチェックをして試合ではよく狙われていました。
そんなこんなで大怪我をし試合中にもかかわらず、病院に直行。そして診察を受けました。帰りのタクシーの中で涙が止まりませんでした。怪我をした理由がしょうもないこと、チームに対して迷惑をかけてしまうという思いで涙したのを覚えています。次の日も試合があったのですが、リンクの外で松葉杖をつきながら、試合前の練習を見ているだけで涙が出て来ました。本当に泣き虫ですよね。自分でもそう思います。

そこから東京に戻りMRI検査をすると前十字靭帯、半月板を断裂し手術が必要なことが判明しました。
全治8ヶ月の大怪我、本当に目の前が真っ暗になりました。自分の生活の軸であるアイスホッケーが突如なくなりどう生きれば良いのか、わからなくなりました。それでも時間は止まってくれません。辛い思いを背負いながら日々の生活をしました。大学に行くのも松葉杖だったので、家から最寄りの駅まで30分、池袋から大学まで30分かかる生活をしていました。今思い出しても、人生で最も辛かった1ヶ月だと思います。自分自身の心が腐っていくのがわかりました。氷上練習に行くのも辛く、練習を見たくない。ずっとそう思っていました。
そんな腐った心の自分を変えてくれたのは、当時の主将の野尻先輩でした。この事は前に氷上奮闘記に記しているので是非読んでみてください。
そして怪我が治り2年目に入り、復帰してから何度練習しても怪我をする前の感覚は戻らず、とても焦っていたことを思い出します。

週6日で氷上練習をしていました。

他の大学の氷上練習に参加する時は東伏見ではないことが多かったので、保谷(西武池袋線)で一人暮らしをする私は、帰りの手段がありませんでした。そんな時は、先輩を巻き込んで一緒に練習に参加しに行きました。大宮先輩、上床先輩当時はありがとうございました。とにかく練習がしたかったので上尾にも、高田馬場でも神宮でもとにかく練習に行きました。帰りの手段が見つからない時は、自転車で高田馬場まで防具を背負って行きました。時には終電で神宮に向かい、始発で家に帰るということもしていました。そんな生活を2年生、3年生の頃は続けていました。アイスホッケーをしないことが、練習をしないことがとても怖かったです。1つ成長したと思ったらすぐ下手に戻る、怪我をしてから積み重ねることは難しくなり、逆に下手になるスピードはとても早かったです。
膝の靭帯損傷以外にもいっぱい怪我をしました。前歯を折り、肩を脱臼し、10針縫うほど額をきったり、時には腰骨をおりながら試合に出ていました。この4年間は常にテーピングと痛み止めを愛用していたように思います。怪我で試合に出れない辛さを経験していたからこそ、多少の怪我で試合を休むという考えにはなりませんでした。気づけばどんな状況でもアイスホッケーをすることが当たり前になり、練習が日常に組み込まれ、アイスホッケーと真摯に向き合うことができるようになったと思います。
膝の靭帯を損傷してよかったと思えることは、アイスホッケーを嫌いにならずに常に真摯に向き合えるようになったことです。
しかし真摯に4年間競技と向き合ってきたとはいえ、振り返ってみると後悔したことはたくさんあります。
2年目の神奈川大学戦でPSを外してしまったこと、大宮先輩の世代で勝つことができなかったこと、もっと同期と話し合っておけばよかった、もっとみんなを練習に誘えばよかった、思い返すときりがありません。

そして1番の後悔は1番最後の試合で勝敗の大事なところを1年生に背負わせてしまったことです。最後の最後で私が1番重いものを背負えなかったこと、最後の最後でエースでいることができなかったこと、このことが4年間の最大の後悔です。
彼らには良い意味で立教に染まらずに、残りの3年間悔いなくアイスホッケーをやり切ってほしいと思います。

後輩達に伝えたいことは、とにかく自分の中でやりきったと思えるよう、アイスホッケーと真摯に向き合い、たくさん練習をしてほしいということです。引退してから休む時間はいっぱいあります。なのでとにかく、止まることなく突っ走って欲しいです。
また同期を大切にしてほしいです。
思い返すと僕の同期は部活を辞めようとしていた時期があります。今でも佐山が辞めると言った時に、新宿で一緒に泣いて話し合ったことを覚えています。同期が辛い時には話を聞いて、一緒に支えあって欲しいと思います。チームが勝った時に全員で喜べる、そんなチームを作って欲しいです。


長々と4年間を振り返ってきましたが、ネガティブな内容になってしまいました。
辛かったことの方が多かったことはもちろんですが、嬉しかったこともいっぱいあります。3年目にリーグ戦で勝てた時は人生で初めて嬉し涙を流すことができました。裏目標であった同期全員(久保は練習試合)のゴールをアシストすることも達成できました。今でも面倒をみてくださる先輩方、とてもかわいい後輩達、苦楽を共にした同期、時には代の被っていない先輩ともご飯にいかせていただき、楽しい時間を過ごさせていただきました。
何より4年間を通じて人間として大きく成長でき、誇れるものができました。
立教大学体育会アイスホッケー部でなかったら、ここまでアイスホッケーに打ち込むことはなく、アイスホッケーを嫌いになっていたと思います。
もう1度高校生に戻っても、迷いなく立教大学を受験します。

大きな挫折を味わい、涙することが多かった4年間でしたが、この4年間は僕の青春でした。

最後に私の公式戦の記録を振り返ろうと思います。

秩父宮杯 1勝(不戦勝)11敗 6得点7アシスト
秋のリーグ戦 3勝32敗   17得点16アシスト

1年目の秋のリーグ戦には怪我の影響で出れなかったのですが、4年間を通じて私たちが勝利することができたのは3回でした。入学する前に立てた目標よりもはるかに少ない勝利数となってしまいました。
何より最初の2年間では、1年目は試合に出ることすらできず、また2年目も勝つことができず非常に申し訳なく思っています。4年ぶりのスポーツ推薦者として、期待されていたのにも関わらず結果を残すことができませんでした。期待に応えられず、本当に申し訳ありません。
強い立教を取り戻す事は後輩たちに託し、いちOBとしてこれからも立教大学アイスホッケー部に貢献していきたいと考えています。

4年間応援してくださったOB,OGの方々、保護者の皆様、細谷総監督、大友監督、吉田コーチ、安保コーチ、本当にありがとうございました。

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(2021年2月22日 14時24分)

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